46 そして続けて問われた。「それより就職だとか、婚約しただとか言ってるけど子供はどうしたの? 堕ろしたの?」 私の中では妊娠なんて遥か昔のことで、訊かれた時、はぁ~いつの話だよなんて思ってしまった。 でも実際まだ妊婦だったら臨月間際なんだよね。 玲子はふたつまとめて問いかけられ、あたふたしてしまった。「離婚したあとすぐにお腹の子は流産しちゃったの。 え~っと、それからあなたが何かしたとかは思ってない。姉がね、言うには、掛居花さんのおじいさまが力のある方でそっちのほうから何か圧力がかけられてるんじゃないかって」 いいところまで突いてきてはいるが、花の祖父が俺の祖父でもあるということを知らずにいそうな玲子を見ていて、男と女のことになると、小賢しく立ち回れるのに、色事を離れるとまるっきし駄目ダメ人間なのだということが露見し、滑稽でならなかった。 しかし、玲子と違い姉の欄子という人は少しは頭が切れるようだ。 さて、その女性は、掛居花の祖父が俺の祖父でもあると知っていて玲子に教えてないのか、知らないのか……どうなんだろうなぁ。 玲子と姉の関係性によると思うが、玲子のような性悪女のことだから姉にも何か仕出かしてたりしてな。 それにしても玲子の話によると祖父茂にとことんやられているようで匠吾は内心驚いた。 フィクサーというのはどこまでも非道になれるのだと聞いてはいたが。 自分は曲がりなりにも一応玲子に引導を渡したことで落とし前をつけた形になっていることと、義父が盾になっていてくれるので首の皮一枚で繋がっているのかもしれないなと思うのだった。
47「まぁ、掛居家のことは俺にも詳しく分からないけれど、参考までに取り敢えずどうすればいいか、ということを話しておくよ。 掛居家に対して祖父母、ご両親、そして本人の花さんたちに向け弁護士を通して正式に俺と君との間には身体の関係もなければ交際すらしておらず、同僚として一緒に酒を飲んだだけであったことを証拠として書類に記載。 またふたりの間にさも肉体関係があったかのように花さんが受け取るであろう言葉を彼女に言い放ったのは自分の悪意からであったことなどを併せて記載すること」「弁護士を通すんですね。 分かりました。いろいろとお世話になります」殊勝に玲子は匠吾に礼を述べた。「これで旧財閥の総帥でもある花さんの祖父が君を許すかどうかは俺にも分からない。 だが君にはもうその道しかないだろう。 命が惜しければできることは全部したほうがいいだろうね。 君は自分の放った言葉で何人の人間を不幸にしたのか考えたこともないだろ? 俺は愛していた花とは結婚できず両親は俺のせいで財閥の跡取りになれなくなったよ。 その辺の地方貴族の跡取りとは訳が違う。 本来なら受け取れたはずの遺産も社会的地位に絶対的権力も父さんは血の繋がらない息子のせいで全て失くしたよ。 申し訳なくて申し訳なくて……。 母さんには肩身の狭い思いをさせてしまった。 玲子、俺はね、夜何度お前の首を絞めて殺そうと思ったかしれない。 お前を一生苦しめてやりたいよ」 ◇ ◇ ◇ ◇『愛していた花とは結婚できず』って、引き摺ってたのに私と結婚したんだ? 『両親は俺のせいで財閥の跡取りにはなれなくなった』 えっ、どういうこと? 向阪くんって元々財閥だったの? 花さんの家系も財閥でしょ? 元が同じ旧財閥だと知らない玲子にはこの謎解きは難し過ぎた。『父さんは血の繋がっていない息子のせいで……』えーっ、血が繋がってなかったのぉ~? 次々と知らない情報が匠吾の口からポンポン出て来てただただ驚くばかりの玲子だった。
48 一番驚いたのが匠吾が自分を殺そうと思うほど憎んでいたことだった。 『じゃぁ、私との結婚は何だったの?』 と訊いてみたいのを必死でこらえた。 「ごめんなさい。皆を苦しめてほんとにごめんなさい」 目に涙をためながらそう何度も謝り玲子は足早に店を出た。 ◇ ◇ ◇ ◇ 歩きながらセミロングのヘアーを手で斜め後ろに何度か流しながら 心に溜まっている文句を吐き出した。 「何言ってんのよ。知らないわよ。 そんな大仰なお家事情なんて。 私を親子して追い出しておいてまだ足りないっていうの? 私はね、花さんに一言もあなたと浮気したなんて言ってないってんの。 花さんだってあなたとちゃんと話し合っていれば誤解だって 分かったんじゃない? そもそもあなたの言うことを信じなかった花さんってどうなのよ。 10年余りも付き合ってたのにあなたたちの信頼関係は そんなものだったってことなんでしょ。 もう花さんがメンタル弱すぎなのよ。 周りが甘やかしてくれるからってこれ見よがしにメソメソしちゃって いい迷惑だよ」 なんという玲子のメンタルの強さ。 しかし結局は向阪のアドバイスを実行しなければ命の危険も有り得るかもしれないとも思う玲子は弁護士を雇い作成した書類を持ち、まずは花の両親の元、掛居家を訪れ謝罪をした。 彼らから『許します』とは言われなかったものの『祖父のところへは自分たちからちゃんと報告するので出向かなくてよい』と言われほっと胸を撫でおろす玲子だった。 誰も彼も……元夫の匠吾にも掛居家からも自分の発言を聞いてもらえただけで『許す』の言葉はもらえなかった。 勿論、大物らしい祖父という人も許してはくれないのだろう。 しかし、やるだけのことはやったのだ。
49 このあと自分はどんなふうに生きていけばいいのだろう。 これからの身の振り方を考えて数日過ごしたあとのこと、気晴らしに電車に揺られ海浜公園にある堤防に来ていた玲子はじっとその場に佇み、今までのことこれからのことを考えていた。 ふと気が付くと考え事をしていたせいか堤防を離れ海浜公園の中程に戻っていた。 こんな暑い中を意味もなく歩き回ったりして、いつもの自分らしくないことに気付き嫌になった。 自分らしくいられないものの正体をぼんやりとではあるが気付き始めていた。 向阪のアドバイス通り弁護士を介してお詫び行脚もしたけれど、何とも言えない不安が胸の奥からせり上がってくるのを止められず、いてもたってもいられない気持が消えないのだ。「こんなところに一人で、難しい顔をしてどうした?」 玲子は見ず知らずの男にいきなり声を掛けられてビクっとしつつ、その男の方へ視線を向けた。するとそれと同時に視界に入ってきた周りの風景は、日没時になったのか太陽がオレンジ色の輝きを放ち地平線の下に沈み始めているのが見えた。 そして再度男に視線を戻すと……「私でよければ話を聞いてやろう」と声を掛けられた。 ここはそもそもお弁当を持って来るような場所で周辺には飲食店もなく、自販機くらいはだだっ広い敷地のどこかにはあるのだろうけれど見渡す限り、自分たちの視界には見当たらなかった。 そんなことを考えたのは喉の渇きを覚えたからで、これからしゃべるのなら、何か飲み物が欲しいと思ったからだ。 私と、見た目40代くらいの男性とは、すぐ側にある石でできた長イスに少しだけ距離を置いて座り、私は取り繕ったりせずに自分がしてきた残念なこと、そのせいで何倍にもしてやり返されたこと、相手がとんでもなく力のある権力者で今頃になって怖くなり正式に謝罪したことなどを話し、けれど『許す』と言われてないことからこの先まだまだ嫌がらせが続くようなら……『死んだら楽になれるのかな』などと思いながら海を見ていたのだと告白した。
50 「それだと今も誰かに素行調査の一環として誰か調査員につけられて 見張られているかもだね」 「そうですね。 私が就職で良いチャンスを掴んだと思うと内定が取り消しになったり、結婚しよ うと思っていた矢先に相手の親族から『素行が悪いので結婚を認めるわけにはいかない』 と言われたり、絶対私を幸せになどするものかという強い意志を感じます。 当初はたまたまかなとか、今までの心映えの悪さが自分に返ってきてるのかなぁ~とか思ったりしてたけど、私の素行の悪さを指摘された時にこれは偶然なんかじゃないって確信しました」 「君の話を聞いていて思ったんだけど、一度世間から身を隠して大きな幸せ、 つまり優良企業に勤めるとか玉の輿に乗って結婚するとかを諦めて、どこか 田舎でつつましく生きていくのが最善じゃないかって思うね。幸せを感じられなくても、苦しかったり辛かったりのない生活で満足でき ない?」「幸せはなくて、でも苦しみも不安もない暮らしですか?」「死のうと思っていたその苦しみがなくなれば、それでよしとしないかい? 私は今から瀬戸内海のある離島に帰るのだが、家族のいない気楽な独り暮らしで君ひとりくらいなら泊めてあげられる部屋もある。 着の身着のまま一緒に行かないか? 車に私のジャケットがあるからトイレでそれに着替えて少し変装して、 そのまま私の車に乗り込めばなんとか追跡してる人間を撒けるかも しれないな。 余計だというなら最寄り駅まで送って行ってあげるよ。 そしてそこでさよならしよう。どうする?」 「私は島本玲子と言います。 お言葉に甘えて逃亡することにします」 「私は井出耕造。 じゃあここで待っていて下さい。 ジャケットを取りに行ってきますから。 紙袋に入れて持ってきます。 そしてそれをあなたに渡しますね。 私の車のナンバーと色を今から言いますからメモしておいて下さい。 駐車場はあそこですからね」 と井出は指さした。 「今から私が歩いて行くのを見ていたらだいたいの位置が分かると思います」 玲子は井出の言う通りに動いた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 私は井出さんの手引きで離島に無事渡ることができた。 渡ったは渡ったけれど、上手く追跡から逃れら
51 仕事が見つかり落ち着くまではずっといてもいいと井出に言ってもらえ、玲子はしばらく井出の家にやっかいになることに。 ひと月ほどで介護施設での介護スタッフとしての仕事を見付けることができた。 それと共に正式にヘルパー2級の資格を取るための勉強も始めることに。 そんな矢先に夢見の悪い同じような夢を頻繁に見るようになる。 一言の返事の対応を間違えたせいで、その後いろいろと因果応報を身に受け……井出と暮らし始めてから、急に胸が痛み出したり涙が止まらない発作が起き始め、そのうち夢の中で自分が花になっていて玲子扮する玲子から、まんまの返事をされ深い絶望を味わう。 夢を見た日は悲し過ぎて起きるといつも泣いている。 夢の中で花の立ち位置になってみてようやく玲子はあの日の花の痛みを知った。 井出の家の間取りは和室4つが互いに隣り合っている形で、見る見ないのプライバシーは守られているが、夢を見てうなされたりした時の声音やクシャミなどに関しては筒抜けだ。 それに加えて井出は小冊子のコラムを書いたり投資などもしているようで深夜、明け方に起きていることもしばしばだ。 そんな状況なので玲子が夢を見てうなされるようになると、しばらくして井出に気付かれることとなった。「なんか、最近うなされているようだが追いかけられてることと関係してるのか?」「夢の中で毎回、私が苦しめた女性の立場になって苦しくて辛い経験をしてるんです。目覚めると夢を見た日は死にたくなる」「君が私と一緒に追っ手の前から姿を消したものだから、今度は呪術を使って夢で苦しめに来たのだろうか」「そんなぁ~呪術だなんて、まさか」
52 「関係者に謝罪したって言ってたけども本丸のその花さんって人にも ちゃんと謝罪したの?」 「それが、会えなかったんです。 会わせてもらえなかったというほうが正しいかも。 ちらっと精神を病んだと聞いてるので今更私のことなんて 耳に入れたくなかったのかも。 私ってほんとに最低なことをしてるんです。 でも周囲から幾ら非難されても以前は分からなかったの、 分かってなかった。 花さんが実際夢の中で私が感じたような苦しみと悲しみを 体験していたとしたら、私は花さんの心を殺したも同然なんですよね。 夢を見た日は本当に死にたくなる。 私、夢を見るようになってよく分かったんです。 私はもう幸せなんて求めてはいけないって。 何かが私のことをずっと追いかけてきてどんな小さな幸せの芽も 開きそうになると摘み取っていくの」 「君さぁ、これから毎日心の中でもいいし声に出してもいいけど、 その酷いことをして苦しめた花さん、そしてある意味無実なのに 君のせいで有罪にされた匠吾さんだったか、そのふたりに謝ったほうがいいよ。『意地悪と嫉妬であなたたちに酷いことをした私を、充分反省しているので お許し下さい』ってね。 もうそんなことになってるのなら、そういうのしか方法はないと思うね。 夢を見なくなるまで心から謝るんだよ。 そして神仏にも祈り、助けてもらうほかないだろ。 そして時間が過ぎていくのをじっと待つしかないな。 できればこの先もこの島を出ない方がいい。 あの日あの海浜公園でぷっつりと君の痕跡は途絶えたことになってる。 だけどほとぼりが冷めて自宅に帰ったりすればすぐに見つかってしまうだろう。 結婚もしない方がいいだろうな。 そうすれば今あるささやかな暮らしは続けられるかもしれん」 「そうですね。 私、これから毎日心の中でふたりに謝罪しながら生きていきます」
53 俺のアドバイスを守り、朝な夕なに謝るべき人たちに謝罪をし、神仏にも すがっている玲子の様子が伺えた。 仕事も真面目に続いてる。 俺は玲子から悪夢の話を聞いた日にいろいろアドバイスしたのだが その時にこんなことも彼女に提案してあった。 石の上にも3年という諺があるように修行と思い3年間は我慢をして、 この先3年は独りで慎ましく暮らすこと。 元々今回のことは色恋を拗《こじ》らせた結果だからね、と。一度彼女が悪夢でうなされて起きた時、ちょうどまだ俺が仕事で起きていたのだ が何気に『怖い』と言って俺の側近くにすり寄って来たことがあった。 つくづく彼女は魔性の女だと思ったね。 出会いがこんな形でなければ俺もあの場面で据え膳を食わずにいられたかどうか、はっきり言って自信がない。 もうアラサーの域にかかっている女だがまだまだ十二分に美しさを 保っているからね。 彼女は残りの2年と数か月を果たして大人しく地味に 淡々とやり過ごしていけるのだろうか。 杞憂に終わればと思っていたのだが……。 ◇ ◇ ◇ ◇ 平日の昼下がりに初めて見る顔の来客があった。「井出ですが何か……」 「初めまして、内野と申します。 井出さんは島本さんの身元引受人ということになってらっしゃるので 彼女のことでご相談に上がりました。 どこかでお話を聞いていただけましたらと思います。 あの……突然のことで申し訳ありません」 彼女は玲子が通っている特別養護老人ホームに勤める看護職員であると 自己紹介してきた。 心を落ち着かせ、宥め、私に話をしようとしている姿が痛々しかった。 彼女の様子から俺は何やら胸騒ぎを覚えた。
93 花が新しく入社した三居建設(株)には、日中、未就学の子供の預け先がなくて困る社員たちのための企業内保育所というものがある。 **** 入社して少し落ち着いた頃、上司の指示で派遣社員の遠野さんに案内されることになった。 彼女の説明によると12名の乳幼児が預けられていて保育士が2名、補助のパートが1名……併せて3名で保育しているという。 私たちが部屋を覗いた時、1才~4才児がそれぞれ思い思いに遊んでいるところだった。 遠野さんから説明を受けていると私たちに気付いた40代とおぼしき保育士の芦田佳菜《あしだかな》女子ともう少し年下に見える綾川結衣《あやかわゆい》さんとが、私たちの方へと挨拶にきてくれた。 2人ともざっくばらんで話しやすく初対面だというのにぜんぜん気を張らなくて済み、私は自分のその時思ったことを構えることなく口にした。「時々、子供たちに会いにきてもいいでしょうか?」 今まで身近に小さな子はいなかったし、匠吾との結婚を考えていた頃も子供のことなんて何にも考えたことなどなかったというのに。ただ身近で小さな子たちを見ていて、心が癒されそんな気になったのだと思う。「ふふっ、掛居さんも、なんなら遠野さんも遊びにきてね。 子供たちも喜ぶと思うわ」 そう芦田さんから声が掛かると、側にいた綾川さんもそれから少し離れたところから私たちの会話に入ってきたパートの松下サクラさんも「いつでもきてくださいね」と言ってくれた。 自分たちのフロアーへの戻り道、遠野さんがこそっと教えてくれた。「えっと、松下さんは既婚者で正社員のおふたりは独身なのよ」「独身でも、ずっと可愛い子たちといられるなんて素敵なお仕事よね~」「あらっあらっ、もしかして掛居さん、保育所に異動したかったりして……」「うん、次の異動先の候補に入れるわ」「掛居さん、その頃私がまだ独身で、無名の小説家で時間に余裕があればご一緒させてください」「いいわよぉー。 遠野さんと一緒かぁ~、何だか楽しそう。ふふっ」
92 この時魚谷はちゃっかりと派遣会社の担当者にその男性社員の プロフィールみたいなものを聞き出していた。 聞けたのは氏名と正社員ということ、そして独身だということくらい だったのだが。 知りたいことのふたつが入っていたのでその場で 『行きます、お受けします』 と答えたという経緯があった。 そう、当時結婚を焦っていた魚谷は相馬付きになった当初から 彼をターゲットに絞っていたのだ。 過去の不運のこともあり、余裕のない魚谷は相馬の 『自分にはトラウマがあって一生誰とも結婚しない生き方に決めている』 と言う言葉も馬耳東風、異性の気持ちを虜にするのは今まで簡単なこと だった魚谷にしてみれば、自分のほうから積極的にいけば、そんな普通では 信じられないような考えを変えることなど、いとも簡単なことだと 気にも留めていなかった。 思った通り、自分がデートに誘えば相手にしてくれた。 好きだとは一度も言われていなかったが、当初あんなふうな言葉を 語った手前、そうそう自分に好きだなんて言えるわけもないだろうと、 そんなふうに自分勝手な解釈でいた。そのため、結婚の話も少しの勇気を 出すだけで話題に持ち出せた。 それなのに彼は 『魚谷さんの中でどうして僕たちが付き合ってるっていうことになってる のか分からないけど最初宣言していた通り僕は誰とも結婚しないから、その 提案は無理です』 とはっきりと自分に告げたのだ。 一瞬何を相馬が言っているのか分からなかった。 過去の男たちは皆、私の気を引くために必死だったのよ。 ふたりの男性《ひと》たちから切望されたことも1度だけじゃないのよ。 そんな私が結婚を考えてあげるって言ってるのに何、それ。 信じられない。 私は気がつくと彼を詰り倒し店を出ていた。 家に帰り冷静になると、自分のしてきたことが如何に恥ずかしいこと だったのかということに思い至り、病欠で一週間休み続け、そのまま病気を 理由に辞職した。
91 新卒で入行した銀行を恋愛のいざこざで辞め、次に就職した派遣先の大手ハウスメーカーにも迷惑を掛けた形(社員との自分有責での婚約破棄)で受付嬢を辞職していた魚谷が、たった3ヶ月で槇原に辞められて落ち込んでいた相馬と、三居建設(株)で同じ部署で働けるようになるなんて、当初の魚谷には考えられない僥倖だった。……というのも、流石に派遣先の社員を裏切ってからの婚約破棄という事情での辞職は4年余り真面目に勤めていたとはいえ、派遣先と派遣元からの態度には冷たいものがあった。 派遣会社から登録を抹消されることはなかったが、前職のような条件の良い大手の企業への紹介はないだろうと魚谷は覚悟を決めていた。 雨宮や柳井との一件でかなり落ち込んでしまい、働きに出る気力というモノが沸かなかったことと、案の定派遣先からの仕事の紹介もなかったことから家事手伝いの態で家に閉じこもるような生活を続けていた。 そんな生活を1年ほど続けていた時に、もう仕事の斡旋などしてくれることはないだろうと思っていた派遣会社から『中途半端な時期になるが即日にでも』とそこそこ大手の建設会社への仕事依頼が入ったのだった。 おそらく急なことで他に行ける人員がなく、自分にこの良い話が回ってきたのだろうと魚谷は考えた。 決め手は、仕事の内容だった。 内容といっても実質の仕事内容のほうではなく、部署的なものといったほうがいいのか。 男性社員の補佐をする仕事と聞いたからだ。
90 「それで?」 と相馬さんに続きを促しながら頭の片隅で相馬さんが醸し出す 不思議な雰囲気の理由が分かり私は少し興奮してしまった。 『結婚するつもりがない』という、これだったのかー、と。 謎が解けたスッキリ感。 続きはどうなったのか、野次馬根性が顔を出す。 ◇ ◇ ◇ ◇ 「『私たちのことですけど……』『……?』『お付き合いして正確にはまだ1年じゃあないですけど、毎日 職場で会ってるしどうですか? そろそろ婚約とか、結婚に向けて話を進めてもいいと思うんですけど』 って言われて僕は腰が抜けるほど吃驚してね。 付き合ってることになっているなんて、どこをどう考えれば僕たちが 付き合ってるーっ? てね」 「わぉ~、それは大変なことになったんですね」「店の中で泣いたり怒ったり、彼女の独壇場だった。 とにかくこれ以上何か言われても僕は結婚は無理なのではっきり言った。『魚谷さんの中でどうして僕たちが付き合ってるっていうことに なってるのか分からないけど最初宣言していた通り僕は誰とも結婚 しないから、その提案は無理です』 『相馬さんがそんな不誠実な人だったなんて、最低~』 そう言い残して彼女店から出て行って、翌々日人事から彼女が 辞めることを聞いたんだよね。 なんかね、今考えても狐につままれたような気分なんだよね」 「彼女に対して思わせ振りな態度、全くなかったのでしょうか」「ないよ、信じて掛居さん。 そうそう今言っとく。……ということで僕には結婚願望は微塵もないのでフレンドリーになれれば それはそれでうれしいけれど、それ以上でもそれ以下でも気持ちはないとい うか、上手くいえないけど今度こそ長くパートナーとして一緒に仕事を続け ていってもらいたいので話しとく」 「分かりました。 金輪際、掛居花はどんなことがあっても相馬綺世さんに結婚を迫ったり しないことをここに誓います。ご安心めされよ」「良かったよぉ~、掛居さん」 そういうふうに泣くほど喜ばれた私の心中はちょい微妙な風が 吹いたのだが、今までの相馬さんが遭遇した不可抗力な恋愛系事件簿のこと を思うと仕方ないなぁ~と思った。 「今度一緒に働けるのが掛居さんでほんと良かったわ」「相馬さん、私に惚れられたりしたらどうし
89「次に派遣されて来た|女性《ひと》は、|魚谷理生《うおたにりお》さんっていう人で約1年続いたけど、何て言えばいいのか……。 仕帰りにたまにお茶して帰るくらい打ち解けてきて、仕事もお願いすれば説明しなくてもあらかたスムースに作成してもらえるくらいになって上手くいってると思ってたんだけど、残念なことになってしまってね。 彼女が辞めてから何度も自分の中で何がいけなかったのだろうかと自問自答したけども『どうしようもなかった』としか……ね、思えなくて」「相馬さん、それって具体的には言いにくいことなんですか?」「これから一緒に働くことになった掛居さんにはちょっとね」「意味深に聞こえましたが……」「魚谷さんに、恋愛感情を持たれていたみたいなんだ。 最初に気付いた時に『自分にはトラウマがあって一生誰とも結婚しない生き方に決めている』って彼女にカミングアウトしてたんだけどねー。『結婚を押し付けたりしないのでたまにはデートしましょ』と言われ、まぁそれでうまく仕事が回っていくならいいかなと思い、たまに……と言っても魚谷さんが辞めるまでに3度出掛けたくらいかな。 あとはこうやってブースで息抜きに雑談したり彼女の相談に乗ったり、仕事帰りにお茶して帰ったり。 とにかく彼女が気持ちよく仕事ができればと付き合ったんだけど……」「上手くいってたのに、最後上手くいかなかったのはどんな理由だったのでしょうか」「あれは、仕事が落ち着いてきて定時上がりになった日のことだった。 帰りにお茶でもと誘われてカフェに入った時のこと。『私こちらに入社して1年経ちました』と彼女から言われ『ああ、もうそんなになるんだね。これからもよろしくお願いします』と返したんだ」
88「サイン? う~ンっとっと、そう言えば朝から熱でもあるのか顔を赤くしてた日が あった、かな。 ちょっとその日は変で僕とあまり視線を合わせてくれなくて。 それで僕の方もなんとなく槇原さんに声をかけづらくなってしまって、 そういうのもいけなかったかもしれないなぁ。 まぁ辞めたくらいだから、僕との仕事は息が詰まってしんどかったのかも しれないね」 「彼女、ちゃんと辞める理由があったみたいなので相馬さんとの仕事が 嫌だったわけではないんじゃないかと」 「そうだよね、変に勘ぐってもどちらにとってもよくないと思うから そういうことで、とは思うけどもね」 私は槇原さんがどういう女性《ひと》か知らないから断定はできない けれど、もしかしたら相馬さんと毎日近い距離での仕事だったから しんどくなったのかも、と思わなくもなかった。 片思いってしんどいものだから。 私も匠吾と両思いになって付き合うようになるまでは、ドキドキしたり 心配だったりでずっと不安だったもの。 相馬さんみたいな素敵な男性《ひと》からアプローチがあれば 私も彼におちるかもね、なぁ~んて。 だけど相馬さんからはまず異性に対する溢れだす特別な感情? みたいなものがぜんぜん出てない。 だから私もぜんぜんっ意識しないで仕事だけに集中できるんだけどね。 周囲の噂だけを鵜呑みにする限り、相馬さんが次々に派遣の女性と 何かあって彼女たちが辞めたのでは? みたいにとられている節があるけれども普段の仕事振りと今話してる 彼の様子から、そういうのじゃないっていうか、相馬さんは誰彼なしに 女性に手を出す人じゃないっていうことが分かる。
87「……といいますと」「……といいますとですね、私の前にいた2人の派遣社員の人たちはどちらも短期で辞めてしまったと聞いています。 相馬さんは私のこともいつ辞めるか分からないって思ってません?」「実は、疑心暗鬼……少し思ってた、思ってる?」「簡単に言いますと『頑張りまぁ~す』ということを言いたかったのです。 それでその疑心暗鬼になっている理由を知りたいということです。 よければどうして派遣の人たちが続けて短期間で辞めることになったのか。理由が分かれば、私はそうならないように気をつければいいと思いますし」「じゃあ、僕の分かりにくいかもしれない話を聞いて何か気付いたこととかあったら意見ください」「OKです」 これまであったことを話しますと言った相馬さんは顎を少し上げ、窓の外、視線を虚空《こくう》に向け口をへの字にして思案しはじめた。 彼の視線が私のほうへと戻り私の視線と絡まった時、被りを振り「思い当たることがないんだよねー」と言った。「入社した時の様子はどんなでしたか? その時からあわなさそうな雰囲気ありました? あわないっていうか馴染めないっていうか」「最初の印象はすごく良かったんだ。 頑張りますっていう勢いみたいなものを感じたね」「へぇ~、じゃあ仕事を任せていてずっとスムーズでしたか? それとも何か……」「掛居さんに訊かれて思い出したけど、そう言えばミスが続いたことがあったね」「相馬さん、相馬さんに限って叱責なんてされてませんよね~?」「気にしないようにって。 次から気をつけるようにとフォローしたけど、まぁ僕のフォローの仕方がまずかったのかもしれないなー。 真面目な人だからものすごく謝罪されて困ったよ」「その辺りから何かしら彼女がサイン出してなかったでしょうか?」
86◇花と相馬コンビ 花が相馬の仕事を補佐するという業務に付いてから3週間が経とうとしていた。 当面の仕事として書類整理、電話対応、PCでのデータ入力、資料作成など少しずつ係わらせてもらっている。 相馬さんの指導は丁寧で性格のやさしい人らしく説明はいつも穏やかで感じの良いもの言いだ。 今取り掛かっている仕事が一息付いたのか、珍しくすぐ側にあるブースへ誘われた。「掛居さん、ちょっといいかな、ブースまで」 指でブースを指す相馬さんから声を掛けられた。「はい、大丈夫です」「掛居さん、どうですか僕との仕事、やっていけそうですか? 何か改善してほしい点とかあったら忌憚なく言ってほしいんだけど」「相馬さん、お気遣いありがとうございます。 今のところ大丈夫です。 相馬さんのご指導が丁寧なので助かっております」「ほんとに? 本心?」「相馬さん、これまでいろいろご苦労があったみたいですがそれで私にもものすごく気を遣われてるのでしょうか? こんなこと、まだ知り合って間もない私が言うのもおこがましいのですが」「ええー、掛居さん、何言おうとしてんのかなぁ。怖いんだけど」「ふふっ、前振りの仕方がよくなかったでしょうか?」「いやまぁ、それで言いたいことは何かな? 聞くけど」「折角ブースでお話できる機会に恵まれましたので雑談などをと思いまして。駄目?」 すごいなぁ~掛居さんは。 チャーミングに雑談を誘うなんて、いけない女性《ひと》だよ、まったく。「こっ怖いんだけどぉ~」「少しだけ、お願いします。 いろいろと派遣の人たちから聞いていて、噂だけじゃあ何が真実か分からなくて、相馬さんの口から分かることだけでも聞けたら今後の私の仕事の仕方なども方向性が見えるかなと思うので。 何故こんな野次馬とも取れることを聞こうって思ったかというとですね、私は相馬さんの仕事を実力をつけてもっともっとフォローしたいと考えてるからなんです。 私も人の子、明日何があるかなんて分からないので100%の確約はできませんが正社員でもありますし、できれば腰掛的にではなく長期に亘りこちらの仕事を続けられればと思ってます」
85 そして迎えた週末、指定されたホテルへと向かった。 私たちが案内されたのはミーティングルームだった。 6人でということだったがあちらは4人だった。 話は婚約中にも係わらず、私が別の男性と交際していることが分かったので婚約破棄するという内容だった。 両親にも何も話してなかったため、母親は泣いて怒り、父親からは勘当すると言われた。 知らない顔の男性は弁護士で私は慰謝料を支払うことになると告げられた。 ほとんど雨宮さんもご両親も私に顔を合わせてはくれなかった。 謝罪する両親の横で私も一緒に謝罪するしか術がなく居たたまれなかった。 あちらの家族が退出したあと、母が私に訊いてきた。「それで柳井って人とはこのまま付き合うの?」 私は頭《かぶり》を振り答えた。「振られた。彼、雨宮さんの親友だったの」「悪いことはできないものね。世間は狭いってことね。 だけど心変わりしたのならお付き合いする前に雨宮さんに断りを入れて謝罪すればよかったものを、こういうことはいつかバレるものでしょ? 今更だけど、いつまでも隠しておけるものでもないんだから。 理生、あなたは私と違って器量よしで今まで男に不自由したことがないかもしれないけど、こういうことって先の縁談に不利になるのよ。 慰謝料払ったっていう前例を作るわけだし」「お母さん、お父さん、迷惑かけてごめんなさい」 ◇ ◇ ◇ ◇ 社内公認で付き合っていた雨宮と魚谷たちがよそよそしくなると、どうしても誰かから理由を聞かれるのは止められず、雨宮が進んで言い触らしたとかではなかったが魚谷の仕出かしたことは社内で知れるところとなり、数年勤めた会社を逃げるようにして魚谷は辞めたのだった。